神様が二人の人間に,生まれ変わったときになりたい姿を尋ねました。
ひとりは速く走れる足が欲しいと思い
「足を4本にしてください」
といいました。もうひとりは物を作りたいと思い,
「手を2本にしてください」
といいました。生まれ変わった二人の姿は虫でした。
神様が二人の人間に,生まれ変わったときになりたい姿を尋ねました。
ひとりは速く走れる足が欲しいと思い
「足を4本にしてください」
といいました。もうひとりは物を作りたいと思い,
「手を2本にしてください」
といいました。生まれ変わった二人の姿は虫でした。
自由連想。
頭の中の整理がつかなくなっている。それほどごちゃごちゃしている訳ではないが,糸が絡まっているような感じ。そっとほぐしてやれば,いいのかも知れない。そのためにこの文章を書いている。何か書くことで少しずつ整理できていきそうな感じなのだ。
ところで,私が一番やりたい自由連想は,他人に自分の考えていることを説明するのではなくて,自分の今の思い付きを加工せずに書いてしまうことである。辻褄が合わなくなることを気にしないで自由に,それこそもっと自由に連想の羽根を広げていくことなのだ。だけれども,それはなかなかできない。自分が壊れてしまうような気もするからだ。
小説家や漫画家のように,物語を作ることを職業にしている人たちはすごい。大量の文字を書くことだけでもすごいのに,それに一貫性を持たせていて,しかも読者を楽しませる要素を入れられるからだ。多くの登場人物はそれぞれ違った性格を持ち,その性格は変わらずに物語の中で動き回っている。小説家や漫画家の思考回路を想像することさえできない。
今日の自由連想
何かやりながら,他のことをするというのが苦手。音楽を聴きながら作業をすると,手が止まってしまう。音楽を聴いてしまうからだ。音楽が私にとって重要な位置にあるということでもある。「聞き流し」ができない。だからといって,音だけに集中できるのかと言えば,そうでもない。英語のニュースを Podcast で聞いているとき,気がつくと集中が途切れ,意識が飛んでいることがある。「意識が飛ぶ」といっても,気を失うわけではない。「今日の晩御飯は何かな」などと別のことを考えてしまうのだ。情けない。
同時にできないのは,音だけではない。PCのバックグラウンドで時間のかかる作業をやらせておいて,その間に別のことをしていて,バックグラウンドの作業が途切れ途切れに何度もあると,何をやっているのか分からなくなってしまう。ミスも発生する。「あれ? 今何やってんだっけ?」となる。完全なルーチン化ができれば,それはそれでうまくいくのかも知れないが。
この文章を書いている間にも,雑音が耳に入ってきたりすると,集中力が途切れる。そちらに神経がいく。子供の頃はもっと集中できていたように思う。大人になった今,何かにビクビクしているような,インパラにでもなったような気分である。耳を外部に向けて,外敵から身を守る。今の自分の外敵とは何だろうか。思いつかない。外敵がないにも関わらず,外敵対策をしていて,それが集中を妨げるようなことにしか働かないのだったら,それはまさしく無駄である。
今日の自由連想。
気分が乗らないときは,じっとしているのではなく,何かをするに限る。それも,後に残るものがいい。Webブラウジングをするのが一番よくない。ストレスがたまるだけである。何をどこまでやったかもわからないからである。本を読むのはよい。今日はここまで読んだというように,進んだことがわかるからである。進まなくてもよい。その場合は進まなかったことも分かるからいいのだ。
文章を書くのは,少しよい。後に残るからだ。しかし,書いた文が再利用できないのが問題だ。再利用できないゴミのような文章であっても,何もしないよりはマシである。これで少しは気分が晴れる。気分が晴れると,何か,もしかするとやらなくてはならないこと,にも手がつきやすい。
大きな要件を抱えたとき,よく言われるライフハックは,細かく分割することである。しかし,大きな要件の処理をやる気が起きないのは,それが大きいからではない。別のところに原因があるように思う。心理的な要因であることは間違いがない。細かい事案がスタック状に積み重なっていて,一番下から始めなければならないのに,一番下を触るとすべてが崩れてしまいそうな恐怖があるのだ。その恐怖を取り除くには,上から一枚一枚はがしていくのが簡単なのだが,一番下までたどり着けないような気もする。
「やり続ければいつか終わる」
これを心の支えにしよう。
しばらく文章を書いていないと,思考のプロセスに目詰まりが起きてくる感じがする。うまく流れていかない。何かに引っかかっている。しかし,引っかかっているその何かが何なのかはよく分からない。これは困ったことだ。そして,何も考えずに書き続ければ,もしかするとこの閉塞感が打開できるのではないかと,考えてしまう。正しいかもしれないし,正しくないかもしれない。
文章を書くというのは不思議な行為である。自分の考えたことを文字に置き換えていくだけなのに,振り返ってみると自分が思ったことではないように感じるからだ。新しい発見もある。頭の中だけで考えていただけでは思いつかなかったことが,文章を書いて,それを読み直してみることで,見えてくることがあるのだ。
一度自分の外にだして,それを見ることでもう一度自分の中に入れる,というのは,一つの対話である。対話がなければ,議論は深まらない。逆に対話があれば,深く考えていくことができる。私は対話を求めている。勉強をするのに,本の中にすべての知識があるのを知っているが,本を読むのではなく,学校に行くのはなぜなのか。それは教師の話を聞きに行くためではない。自分と同じ程度の人間と対話するためである。教師のような,自分よりずっと先にいる人間の話を聞いても,情報が流れ込むばかりで対話にはならない。対話するには立場が対等でなければならないのだ。対等な人間との対話は,梯子を一段ずつ上るのに最適なのである。教師の梯子は段の幅が広すぎて手や足が届かないのだ。
自由連想。
キーワード: あり得ない状況,トレース小説家というのは,どのように小説を書いていくのだろうか。何人もの登場人物がいて,ある状況があって,それを展開させて行く。だいたい,人格をいくつも保持するのが大変だ。私のように,他人の気持ちが分からないような人間は,他人の人格を作り出すということが想像できないのだ。
小説というのは,ある人格を持つ登場人物がいて,その人物が,あり得ない状況に放り込まれることから始まる。その状況は,状況というのはすべてそうだが,時系列で並んでいるものである。状況を説明するのに,過去からずっと並んでいる時系列の最初から説明していると,人生が終わらない。どこから書き出すかはきわめて重要であるが,極めて困難でもある。
小説というものが面白いのは,そのあり得ない状況に陥った人間が,何を思い,どうやって対処していくかを見ることができるという点にある。自分とは違う状況におかれた人間は,自分とは違う反応を示す。その行動をトレースする。得られるものは何だろうか? 実は何もないのではないか。
元記事は
「もっと大きな魚を釣ってみたい」と願っていたところ先月下旬、俳優の梅宮辰夫さんに誘われて出演したテレビ番組で大物のマグロ釣り挑戦が実現した。父親裕二さん(48)が同行した。裕二さんは三浦市三崎町小網代の釣り船「丸十丸」の船長。裕二さんによると、綾香さんは3歳から乗船してさおを握っている。
待望のマグロは久米島沖で狙っていた2日目に掛かった。しかし、途中から綾香さんがリールを巻いても糸がびくともしない状態に。綾香さんの力だけではリールを巻けないと判断した裕二さんが糸を指でたぐり寄せながら親子で力を合わせ、マグロを船の近くの水面まで引き寄せ釣り上げたという。
綾香さんのマグロと梅宮さんのマグロを刺し身にしたところ計750人分あった。
>梅宮辰夫さんに誘われて
>綾香さんは3歳から乗船してさおを握っている
>がびくともしない状態に
>綾香さんの力だけでは
>けないと判断した裕二さんが
>指で
>たぐり寄せながら親子で力を合わせ
>梅宮さんのマグロえらい文だよなw
という風に読み取る力がすごいよ。
本当にこんなことがありうるのだろうか。これで成り立つのか。今の日本で私たちが働いている会社とまるで逆ではないか。会社だけではない。自分の生活自体がそうだ。自分で自分をコントロールして毎日を送っている。
何でコントロールが必要かといえば,忘れてしまうことがあるからだ。思い出してからでは準備が間に合わない。他人との約束が特にそうだ。他人と会う約束ならば,日時と場所が決まっている。それにあわせてコントロールするのではないのか。
最近の私の悩みは,「ToDoリスト」にいつまでも残り続ける項目である。「ToDoリスト」には「やらなければならないこと」が書かれている。それは過去には「やりたいこと」であったはずのものである。時間の経過と共に「やらなければならないこと」に変化したものである。これをやるには「えいやっ!」という掛け声が必要なのだ。先週から,無理矢理でも項目を消化するようにしている。やるのにはエネルギーが必要だが,やってしまえば後はすっきりする。「のどもと過ぎれば」に似ている。やってしまった方がいいのだ。しかし,コントロールなしに,自分でやりたいことだけをやっていると,いつまでたってもできないことがある。もともとは「やりたいこと」であったことでも,時間が過ぎてしまうとやりたくなくなることは多いのだ。
なかなか消化できない項目に関しては,全部を一度にやるのではなく,一部に手をつけるだけでも違う。少しだけやるだけでも,あまりにも亀の歩みではあるが,それでも違う。泣きながでもやらなければならないことはある。なぜ,「やりたいこと」だったはずのことが「泣きながらでもやらなければ」に変わってしまったのだろうか。
自由連想。
キーワード: 砂上の楼閣,土台,主張を決めない,書いているうちに見つける最初にタイトルを書かなければならないのがつらい。何も考えずに,1日中文章を書き続けることができたら,新しい自分に出会えるかもしれない。新しい自分ではなく,単に疲れた自分であるかも知れない。Voxに書いた文章は読み返すことが少ない。それは,見直すことなく書き流しているからだろう。中心になる主張もないし,脈絡もない。だから,この文章で何がいいたいのかが伝わってこないのである。
それもそのはず。何がいいたいか分からないから書いているのであるから,である。書いているうちに言いたいことが見つかるというのが,この自由連想による文章作成の目的なのだから。自分の思考を,思考したままに,文章として固定していく。そうすると,そこに土台ができて,その土台から次の段階に進むことができる。「砂上の楼閣」であってもよい。楼閣を作るためには,砂の上に,硬い土台を作る必要がある。もし,足元がくずれてしまっても,楼閣全体が崩れるのではない。楼閣の形は保ったまま,傾いたり,横倒しになったりするだけである。すべてが砂に帰すわけではない。
だから,少しでも,なにかの手がかりを残して行くことに意味がある。話し始めてから,ようやく何が自分がいいたいことなのかを知ることはよくあること。それを独り言で綴っていこうというのが,この文章の目的なのである。
自由連想。
「もう書くことが何もないよ」という状態が最高だ。その何もない状態から,出てくるものが本質だ。無理矢理ひねりだす。女性との会話だってそうじゃないか。「会話がなくなったら別のコミュニケーションを」ではない。そういう逃げは打たない。「話すことがなくなったなぁ」から始まる会話がある。どうでもいい会話かもしれない。しかし,そこには意味がある。
「話すことがある」というのは,つまり,「ネタがある」ということだ。「話すことがなくなった」というのは,つまり「ネタが尽きた」ということだ。「ネタ」には「オチ」がきちんとある。しかし,ネタでないものにはオチがあるとは限らない。それがいいのだ。人生はネタではないし,オチもない。今まで生きてきた中の「面白エピソード」はネタである。しかし,毎日毎日が面白エピソードで埋め尽くされているわけではない。淡々と過ぎて行くのが普通の日々である。
淡々と過ごす日常を軽く見てはいけない。その中には小さな起伏があり,注目すれば十分に面白いことが転がっているからである。何もないのではない。何も見つけられないのだ。注意すれば,見つけられる。
大きな起伏はネタとして,キャッチコピーとして記憶すればいい。小さな起伏は,記憶しないかも知れないが,一旦は気に留めよう。
話すことがなくなったら,やり過ごした小さい起伏の話をすればいいんじゃないかな。そこで思ったことは,自分には当たり前のことかも知れないけど,相手には当たり前ではなくて,新鮮なことなかも知れない。そうすれば,お互いのことが少し分かるし,「面白い話をしなきゃ」という義務感もなくなるし,緊張感もなくなって,くつろげる空気がつくれる。
